昭和42年11月5日 朝の御理解
今日もどうぞ間違いのない一日でございますように、そういう祈りを、願いをみんな持つことでございましょう。
朝の御祈念にでも参りもさして頂こうというからには、矢張りそういう願いを持たなければ又生きていけません。どうぞ今日一日間違いのない一日でありますようにということは、どうぞ神様の間違いのないお働きを受けていけますようにということにも通ずる訳でございますよね。そこで神様の方は一分一厘間違いのないお働きを下さるのでございますから、私共そこんところに焦点をおいて日々をおかげこうむっていったらいいのです。どうぞ今日も間違いのない一日でございますように、とそれがならそういう願いだけではいけませんから、事実自分の心の中にも間違いのない教えに反したことのない、本当に御道の信心をさして頂いとる者の生き方、生き方、在り方ということを求め求めしながらの一日でなからなければならないということになるのです。そこに確かに一分一厘の間違いのない働きを受けることも又出来るのです。朝お参りしてお届けを頂いてきたから、もう今日一日は安心だと言うような事ではあまりにおおざっぱだと思いますね。
昨日お風呂に入っとりましたら、久しぶりで栄四郎が入ってまいりましてから、一番下の子です。お父さん背中流さしてもらいますと言う。この頃えらい言葉づかいがよくなっとるんですよね。もう小学校も六年生になりますと、驚くほどの良い言葉を使ったりですね、行儀なんかも矢っ張り折り目ただしゅうなります。それでなかなかその背中洗いなんかでももう矢っ張りあの良くやってくれるんですね。そしてまぁこりゃ私親子の話でございますけれども、そういう大体その魂胆があったらしいんですよ。あの散髪器械を買い直してくれとこういう訳なんです。なしやうちにあるじゃないかと言うたら、ありゃそのあんまりね、そのきらきら坊主のごとなってからそのいかんち、それでまちっと長かつの、二枚くらいのやつで、その僕だけじゃないよ、兄ちゃんどんもみんなそげん言うとる。もううちでつめ、うちでつめちお父さんが言いなさるばってん、うちんとはもう丸坊主のごとなるけんおかしか。そりけんでその二枚のちったながくつめれるのをですね、買い直してくれと言う訳なんです。そりゃまぁ買い直してやってもいいけれども、けれども栄四郎、あの少しは人と違わなきゃいけないよ。と。私が、だからそう言うくらいの事をね、いちいち気にするごたる、例えば人もみんな二枚でつんどるけん、俺達も二枚でつまんならんと言ったような事ではいけない。お父さんは頭が悪くてから、学問はでけなかったけれども、子供ん時からそういうところがあったんだ。人が袴をはいていくときには洋服着ていく。人が洋服着ていくときには袴をはいていくちごたる風な、何かちっと人と変わらにゃ好かんところがあったんですよね。それで私共の小学校時代は、まぁ洋服の流行りたてでございましたから、もう猫も杓子もその袴はいてくるんです、あの洋服を着てくるんですよ。それで私は袴をはいていくわけです。そしていよいよその遠足とか旅行とかち言うときには反対です、もうその私はもうすぱっとした洋服を着ていくわけですね。というようにそのどういうことでしたか、やっぱ人間が変人にでけてたんですね。そのなにかそのちっと違わにゃでけないようなものが、もう一言、二言じゃなく沢山あったんですよ。で私が栄四郎にもう栄四郎が頭はいつ見たっちゃピカピカちいうごたる風にいっちょやってんかち私がもうしましたら、ほうそういう手もあるなちいうわけなんですね。それからま、いろいろそんなことからでございましたが、とにかくね人にその目立つと云うてもね、そのころの通信簿に人にその目立つようなその事を言うたり、したり、栄四郎がすると言ったような事を書いてあったんですよね。だからその目立つ事でも、成る程あれがしておることが、云うておることが本当だということに目立たなきゃいけないぞと言うような話をしておりましたら、もうその学校でもみんなにね、矢張りあの尊敬されると言う奴はね、もうお父さんみんなこの何とか言いましたよ。その二重人格だとこういうですね、先生の前だけむごうやってですね、もう言うとるっち。ぼくはだからその口に真を語りつつ、心に真のなきこと。これだけは僕は学校で守っとるちこういう訳なんです。ほうお前はすばらしい事を言うね。ちいうてからだからその僕の事をそのみんなが学校ん先生も良く見ないし、そのほかの誰も矢張り僕を変人、いわば扱いにするとこういう訳なんですね。そういうその言葉を幾つも使うんですね。口に真をようそげな事をあんた覚えとったね。というてから「口に真を語りつつ心に真のなきこと。」そういう事じゃいかん。いわゆるその二重人格じゃいかん。だからこれが本当だと言うことをすると人はそれを変人と言う。変わり者のように言う。とにかく世の中には偽善者があまりにも多すぎるという訳なんですね。もうおまやもう同じこつばえらい幾つでんしっとるね。三つもそう言うわけですね。偽善者とか、二重人格とか、口に真を語りつつ心に真のなきこと。とかと言うような言葉を使ってその話すんですね。教祖の神様も矢張り、本当にその信心をするなら変人になれと、変人とはすぐいことぞとこう仰っておられる。ですから私共がですね、その人がこうしとるから、こうしていかなければこの世はたちゆかないといったような考え方から脱却してです、いわゆるこうすることの方が本当だと、こうすることが信心だと言うことをです、私は自分が信条にしていかなければ私はいけないと思うんです。言うことが違う。ばってんようと付き合いよるとです、あの人ん言うちこつがやっぱほんなこつと言うようなものをですね、そこに毅然として頂き抜かなきゃいけん。場合にはそりゃ変人扱いされるかもしれません。人の注目を集めることは出来ないかもしれません。人にかえって尊敬されるような事がないかもしれません。けども結局はそれが勝つのです。矢張りこうやって教会の子弟としてからそのそういう自覚を矢っ張りあれでももっておるんだなと言うことを私感じました。
だからこのあたりが何と云うても僕の生き方でいくという栄四郎の生き方なんだそれがどこまで本当な事かということを確信しながらしておる事でもございますまい。けれどもです、そういうものが育っていくことは私は、いわゆるすぐい、いわゆる変人をつくっていくことだ。私がもうしますように、どうぞ今日も一日間違いのない一日でありますようにと、願わないものはありますまい。ということはです、どうぞ神様の一分一厘の間違いのないお働きを頂きますようにということでもあることである。為にはどうぞ一分一厘の間違いのない一日でありますようにということだけではなくてです、どうぞ一分一厘とはいかなくてもです、自分の心の中にこうすることが本当だと思うたりしたことを言い、行動していく一日でなかならければならないと言うことなんです。ちょっとあの人は変わっちゃる、そう言われてもかんまん。場合には笑われてもいい、けれども私ゃここんところをです、おかげを頂いていかなければ確かに、私共のその内容にですね、栄四郎が三つも同じようないわゆる表現をもって言葉を違えて申しましておりますように、学校の先生にゃ偽善家が多いとこういわれる。二重人格だと、口に真を語りつつ心に真のなきことだというような事をですね、もう咄嗟にそれを私はよう、しかし申しますとにゃ驚きましたんです。だから僕ももっともっとなら変人振りをま、発揮しようという意味の事を申しておりましたがです、私はそこんところにいわゆる、そりゃ成る程人間ですから間違いもございましょうけれども、これが本当だと思いこんでおることがです、間違っておっても、それは本当の事として神様が受けて下さると思うんです。それが段々長ずるに従って教えが本当に身についてくるに従って、教えを頂けば頂くほどです、本当から本当を求めて勿論いける事でございましょうから、ございますから私共は今日一日を本当に御道の信者としての信心振りというものを発揮できれる一日でありたい。そこに私は少しあの人は違っちゃるというところになってくるのであり、成る程信心しなさるから、ま、そのここで代表的なのは笠さんなんかは実に代表的ですね。もうそれを曲げなさらん。だから本当に人は変人というかもしれませんけれども、あの人の変人振りは、いわば本当にすばらしい変人振りとして、変人としてみんなが注目をおくことが出来る。そこになら笠さんが受けておられるような、いわゆる一分一厘の間違いのない働きを受けていかれるのじゃないでしょうか。一分一厘間違いのない働きと言えばですね、あちらがもう一年あまりですか、もうそれこそ周囲のものが心配するほどに家のまぁ追い立てを言われております。勿論追い立てというのは、あちらがはじめからあの人の人物を見込んでかして、もう無償同様で貸しておられた。塚本というお醤油やさんが、ところが今度西鉄の今度の拡張ですかね、あれでどうでもそこをのかなければならない。そこでその一年前からその事が云うてあった。ところがその一向に立ち退かれる風じゃないもんですから、少し塚本さんの方も気を揉んで来られた。もう後一ヶ月だと言うのに、一向その土地を買われる風でもなからなければ、変わられる風でもないから、あちらからみえられる。けどもいろいろあちらにも頼んでおりますから、家を云うて来てもらったり、土地を云うて来てもらうのでございますけれども、椛目の金光様、いわゆる合楽の親先生がまぁ時期を待て、時期を待てといわれてから、実は時期を待っとりますと言うような事を言われるわけなんです。だもんだから少し勘に来られたんですね。塚本さんがそりゃあんた、いくら金光様、親先生、親先生ち、云うてあんたそげん金光さん土地ばその持って来てやらっしゃる訳じゃなかろうもんなけんで、という風で少しまぁそのそういう風に言われるもんですから、ならいっぺんその合楽の先生に会うて下さいち、それから丁度先月でしたか、その同道でみえられました。それでしばらくまぁお話したことでございますけれども、まぁとにかく塚本さん御迷惑はかけませんから、とにかくま、ぎりぎりまで待って頂きますようにと云うて、一ヶ月間の余裕をもらいました。それでおかげを頂いて参りましたところが、その一ヶ月もあと一週間だと言うのに、未だその一向家を換えられる風ではないもんですから、又みえたんですね、そん時には少しその笠さんやっぱもう意気消沈してござる。こりゃもういよいよどうなるじゃろかとこう思われた。成る程奥さんからも責められなさるもんですから、丁度その前日か、みえとります岡崎さんがいかれたそうです。したらもうその久留米の御信者さんがたがみんなそれを心配しているんですね。もうみんなそれぞれにお取次を頂かれてから、どうぞその良い家が、土地が見つかるようにと言うお届けがみんながされる位にやっぱなるんですよ。そういうところに最近の久留米の方達の信心は本当に有り難いとこう思うですね。
手に手を取り合うてというか、横につながりをえらい、今頃その信心を持っていかれるですね。家はどげんなったですか笠さんというたところが、それがああたもうまだここにございません。そして奥さんがでてきて言われることが、岡崎さん、うちのお父ちゃんばっかりゃもう本当に金光様、金光様でですね、もうあげん金光様一点張りじゃいかん。でもここんところはもう里ん父もその見かねてですね、もうその二百万、三百万なら出してやろうちいいよる。( )ごたるふうにその神様だけじゃいかんと思いますばってんですね、というてその岡崎さんに話されたというくらいです。そしたら丁度その翌日が日曜になっとりましたから、日曜は奥さんと一緒に参って来ます。子供連れで参って参りましてから、もういよいよ一週間になりましたがということでございました。そこで私はあん時に笠さんに何とか申しましたですね、少しあの気合いを入れました。せめて塚本さんがですね、もう一ヶ月なっとんほんに待ってくれらっしゃればいいばってん。もうこんだは待たんばの。もう今度は例え工場になるような家がなかったっちゃあんたどんが住まわれる家なっとん探して、とにかくでてあけてもらわにゃでけんよと言うことをその前の日に言われたらしいですね。それががくっときたわけなんですよね。夫婦に。でその事がまぁ困ったことだということになった。もうそりゃ心配がそりゃないこともないのですけれども、こりゃもう自分が一人で自分が心配どんしちゃならんというのが、笠さんの生き方なんだ。心配は神様にしてもらわにゃ、心配は親先生がお願いしておるから、自分が心配がおきてくるんです。起きてくると頭下げて打ち振って自分が心配どもしちゃならんというのが笠さんの生き方なんです。これがすばらしいんですよ。氏子が心配すりゃ神が心配せんですと仰るくらいですから、心配があるなら、心配をお届けする。お届けをしてここに自分の心に安らぎと安心を感じさせてもらう日々でなからにゃならんのだけれども、やっぱここあと一週間とせまったところになってまいりましたらです、それからあなたがそう言うようなですね、もう一時期待ってもらやよかてんなんてん。そういう甘い考えではおかげにならんよ。さらにここ一週間向こうから待とうかと言われる位なです、言うなら神様が日をきっておかげをやろうと言いよんなさるのと同じくらいですよ。と私が申しました。
昔の先生方はね、御日切りと言いよんなさった。ここでは致しませんけども、( )お願いに来ると一週間の日をきって願われる。十日に日をきって願われるといったような在り方があったんですよ。いうなら神様の方が日をきっておかげを下さろうとしておるのですよ。それをああたがたがまぁ一ヶ月待ってやらっしゃるとええばってんと言ったような事では、又ひと月延びるどころじゃない。そげな事ではおかげは受けられん。ま、どうでんこうでんあと一週間でおかげ頂きなさいと申しました翌日でした。でてみえまして、あるブローカーの方がみえた。それはもう以前に話のあっとったうちじゃった。その事を何カ月か前にお届けさして頂いたら、もうそれは要らんといってはっきり意志表示をしときなさいということであった。だから向こうの方もいらん。だからその事ならば、私共も本人同士で話し合っておることですから、もう向こうも知ってある。こっちも知ってるとですから、そんならわざわざああたがたに入って頂かんでもいいですからというてそういうきっかけを又、新たに作って下さった事を感じてその事がお伺いあった。そしたらさっそく交渉してみよと、そして金もいくらかまけて、ま、いくら、いくらじゃありませんけれども、金もまけてもらう相談をしてまけてもらう事が出来たらなら、向こうが譲歩さつじゃることが出来たらです、もうそれに決めておかげ頂くようにということであった。ところがその向こうの方でもですね、そのほかに向かない。昔風呂やをしてあったんですね、だからガランドウのようなお家であるし、二階に住居があると言ううちなんです。だから他の人じゃ手が付けられないのです。だから向こうの方でも、まっとったと言わんばかりに金もこれから一歩も譲らんと云うておられた金をまける事が、まけてもらってそしてその二三日あとには手付けをうって話が定まった。それも二三日に事であった。
例えばですね、そう言うようにまぁそれはひとつのおかげ話でございますけれどもです、これはけれども本当にその笠さんの身になってみりゃ大変な事だったと思うんですね。実を言うと、そこに私は日頃のですね、笠さんの信心がものを言うと思うんですよ。それまで待たせられたと言うことも、私は自分で神様の間違いなさを知っておるから待たせられたのであり、笠さんもそれを信じてござるから待ちなさったのである。そこにですね、一分一厘の間違いのないおかげ、働きになってきた訳なんです。そん時には、金の心配もいらんですもんね。その何カ月の間にもう親の方がやきもきしよんなさる。奥さんの里の方がもう金は二百万、三百万なら私が出そうというくらいになっちゃった。正月あたりもそう言うくらいであった。奥さんの方のま、いうならめでたくおかげを受けたわけでございますけれどもです、そう言うようないきかたもです、いわゆる私は日頃の笠さんの言うならば、すばらしい変人振りがです、言うならばです、「どうぞ、今日も一日、間違いのない一日でありますように」という願いをですね、日々私は行じていかれるところにです、神様の働きも又、一分一厘の間違いのない働きになって表れてきておると言うことをです、お互いに知らなければならないと思いますですよ。どうぞ今日も一日間違いのない一日でございますように、神様の方は一分一厘間違いのあろうはずはないのですから、こちらが間違いのない生き方にならせてもらう。その事はその難しいことではない。ただ、問題はです、こうすることが本当だと言うことをです、うましていくことだけなんだ。そこにです、信心するものは変人になれ、変人にならんとおかげは受けられん。変人とはすぐい事ぞと仰るそのすぐいことぞと仰るそのすぐいというその事をです、私は世の中では変人と言わなければならないほどに世の中は狂っておると言うことを知らなければいけません。
栄四郎じゃないですけれども、学校の先生がもう先ず偽善家が多いと、そういう中にあってこれが本当だと言うことを貫いていくと言う人は実に希である。これだけたくさんの信者がおるけれども、この中に、なら真の信心を求めて、真の人にならして頂くことを願っての信心をしておるものは、ごく希であるというように、そのごく希な方をとらして頂くおかげを頂かなきゃならんですよね。
どうぞ